1
運転手がジロッと私を見た。
一月十六日、水曜日。新大阪駅南側大型駐車場。腕時計は21時50分を少し回っている。
バスの出発まで三十分以上もあったが、添乗員の許可が下りたので真っ先に乗り込んだ。
私のような気の早い乗客は、気に入らないのだろう。長距離運転前の寛ぎのひと時を邪魔された運転手の眉間に皺がよった。
乗車と共にポマードの匂いがツンと鼻につく。私とは20以上の年齢差があるようだ。
私は無印のグリーンキャップを深々と被り、後ろから四列目、正面から見て右側に座った。予約では通路側の席になっている。
一人旅か、って? まあ、そんなところだ。――今はそれぐらいにして話を続けさせて貰う。

私はお気に入りのカンゴールフィールドの黒系ファー付きジャケットを着ていたが、暫くして熱くなってきたので身体をくねらせて脱いだ。まだ網棚にはスペースがいっぱいある。
ズボンの右ポケットからメモ用紙を取り出し、鉛筆書きの横長の数字を何度も読み返した。二人席を占領し、気兼ねなく夕刊を広げた。手荷物は足元に置いた小型のショルダーバッグ一つ。
運転手が室内ミラーでちらちらと私を見ている。缶コーヒーを半分ぐらい飲み干したところで、運転手は車外に出て添乗員と話し始めた。
運転手と添乗員が吸った煙草の煙が、澄み切った空気にエキゾチックなシルエットを描いている。
22時20分。後部座席が十席ほど空いた状態で、それ以外は全てスキー客でいっぱいになった。補助席は一切使われていない。
暫くして、十名ばかりの一行がバスに乗ってきた。頭髪の薄いずんぐりとした男が先頭を切って私の方に向かってきた。
「社長、一番奥です。どうぞ」
社長と呼ばれた50過ぎの脂ぎった男が、一番後方の中央シートにドカンと座り、メタボリックな男二人が相撲の太刀持ちのように両脇を固めた。
「社長、何もこんな窮屈なスキーバスで行かなくても――」
正面から見て右隣の、スリックヘアの男が社長に耳打ちした。
「サプライズだ、サプライズ」
社長が腰を落ち着けるまで後方にかぶりを振っていた他の社員も一同に頷いた。
最後にドライバーと添乗員が乗車。添乗員は乗客名簿を運転手に渡してからマイクを握った。
22時30分ジャスト。
――G交通をご利用頂き誠に有難う御座います。最終目的地信州N温泉には明朝の7時20分に到着予定です。途中、二条城、草津駅に停車致します。ご用の節は、お気軽に私までお申し付けください。……では信州N温泉行き特急スキーバス、只今発車致します。
定刻の出発だった。
20分ほどして大阪の中心街を出た。右手に万博公園を見ながら吹田インターに入った。京都の二条城駐車場までは約1時間の道のりである。
スキー客はマナーをわきまえ、仲間同士喋るときも小声で話していた。お菓子の匂いが少々気になったが、気分が悪くなるほどではなかった。
23時を超えた頃、私の二つ前方の席から不快な歯軋りが聞こえてきた。どうやら発信元は茶髪男のようだ。本人はぐっすり眠っていて気付いていない。
私の目の前の二十代前半と思しきカップルが、堪り兼ねて文句を垂れ始めた。
「うるさいわね」と長い髪のキツネ目の女が押さえ気味の声で言うと、隣に座ったスキンヘッドの男が「寝れねえよ、ったく!」と頭を引っかいた。
「聞こえるでしょ、そんな大きな声出したら」
「聞こえるように喋ってんだ、よぉ――!」
夜行バスの車内。ディムライトになってから、早1時間が経過していた。
「酎ハイは?」
「無いわよ、もう。貧乏旅行なんだから」
「チェッ!」
スキンヘッドが居たたまれなくなって、前席のシートを蹴り上げた。
「オイ! オマエだオマエ! 歯軋りがうるせぇんだ、ったく!」
茶髪の男は振り向き様、寝ぼけ眼でスキンヘッドに怒鳴った。
「何じゃい、坊主野郎!」
スキンヘッドが立ち上がった。
「オレにケンカ売るのか? いい度胸だ!――表に出ろ!」
走行中の車内。出られるわけがない。
キツネ目の女は困り果てて「すみません」と頭を下げ、スキンヘッドの袖を引っ張った。
「オマエ、タダでは――」といきり立ったが、「いい加減にしてよ」と女はスキンヘッドの左の頬に思いっきりピンタをくらわせた。
他のスキー客は黙って状況を見守っている。
添乗員が、就寝の時間ですからお静かに願いますと、的の外れた宥め方をした。
決まり悪くなった茶髪の男は、鼻で笑って席に着いた。
「お腹に子供がいるんだから、心配させないで」
スキンヘッドは一転、神妙な顔つきになった。
最後列に陣取る社長一行は黙って動向を見守っていた。後方にかぶりを振った時、社長と私の目が合った。
23時25分。バスは5分早く、二条城の駐車場に到着した。
――15分間のトイレ休憩です。
光の加減なのか、室内ミラーに映る運転手の目が、赤く光ったように見えた。
(つづく)
運転手がジロッと私を見た。
一月十六日、水曜日。新大阪駅南側大型駐車場。腕時計は21時50分を少し回っている。
バスの出発まで三十分以上もあったが、添乗員の許可が下りたので真っ先に乗り込んだ。
私のような気の早い乗客は、気に入らないのだろう。長距離運転前の寛ぎのひと時を邪魔された運転手の眉間に皺がよった。
乗車と共にポマードの匂いがツンと鼻につく。私とは20以上の年齢差があるようだ。
私は無印のグリーンキャップを深々と被り、後ろから四列目、正面から見て右側に座った。予約では通路側の席になっている。
一人旅か、って? まあ、そんなところだ。――今はそれぐらいにして話を続けさせて貰う。

私はお気に入りのカンゴールフィールドの黒系ファー付きジャケットを着ていたが、暫くして熱くなってきたので身体をくねらせて脱いだ。まだ網棚にはスペースがいっぱいある。
ズボンの右ポケットからメモ用紙を取り出し、鉛筆書きの横長の数字を何度も読み返した。二人席を占領し、気兼ねなく夕刊を広げた。手荷物は足元に置いた小型のショルダーバッグ一つ。
運転手が室内ミラーでちらちらと私を見ている。缶コーヒーを半分ぐらい飲み干したところで、運転手は車外に出て添乗員と話し始めた。
運転手と添乗員が吸った煙草の煙が、澄み切った空気にエキゾチックなシルエットを描いている。
22時20分。後部座席が十席ほど空いた状態で、それ以外は全てスキー客でいっぱいになった。補助席は一切使われていない。
暫くして、十名ばかりの一行がバスに乗ってきた。頭髪の薄いずんぐりとした男が先頭を切って私の方に向かってきた。
「社長、一番奥です。どうぞ」
社長と呼ばれた50過ぎの脂ぎった男が、一番後方の中央シートにドカンと座り、メタボリックな男二人が相撲の太刀持ちのように両脇を固めた。
「社長、何もこんな窮屈なスキーバスで行かなくても――」
正面から見て右隣の、スリックヘアの男が社長に耳打ちした。
「サプライズだ、サプライズ」
社長が腰を落ち着けるまで後方にかぶりを振っていた他の社員も一同に頷いた。
最後にドライバーと添乗員が乗車。添乗員は乗客名簿を運転手に渡してからマイクを握った。
22時30分ジャスト。
――G交通をご利用頂き誠に有難う御座います。最終目的地信州N温泉には明朝の7時20分に到着予定です。途中、二条城、草津駅に停車致します。ご用の節は、お気軽に私までお申し付けください。……では信州N温泉行き特急スキーバス、只今発車致します。
定刻の出発だった。
20分ほどして大阪の中心街を出た。右手に万博公園を見ながら吹田インターに入った。京都の二条城駐車場までは約1時間の道のりである。
スキー客はマナーをわきまえ、仲間同士喋るときも小声で話していた。お菓子の匂いが少々気になったが、気分が悪くなるほどではなかった。
23時を超えた頃、私の二つ前方の席から不快な歯軋りが聞こえてきた。どうやら発信元は茶髪男のようだ。本人はぐっすり眠っていて気付いていない。
私の目の前の二十代前半と思しきカップルが、堪り兼ねて文句を垂れ始めた。
「うるさいわね」と長い髪のキツネ目の女が押さえ気味の声で言うと、隣に座ったスキンヘッドの男が「寝れねえよ、ったく!」と頭を引っかいた。
「聞こえるでしょ、そんな大きな声出したら」
「聞こえるように喋ってんだ、よぉ――!」
夜行バスの車内。ディムライトになってから、早1時間が経過していた。
「酎ハイは?」
「無いわよ、もう。貧乏旅行なんだから」
「チェッ!」
スキンヘッドが居たたまれなくなって、前席のシートを蹴り上げた。
「オイ! オマエだオマエ! 歯軋りがうるせぇんだ、ったく!」
茶髪の男は振り向き様、寝ぼけ眼でスキンヘッドに怒鳴った。
「何じゃい、坊主野郎!」
スキンヘッドが立ち上がった。
「オレにケンカ売るのか? いい度胸だ!――表に出ろ!」
走行中の車内。出られるわけがない。
キツネ目の女は困り果てて「すみません」と頭を下げ、スキンヘッドの袖を引っ張った。
「オマエ、タダでは――」といきり立ったが、「いい加減にしてよ」と女はスキンヘッドの左の頬に思いっきりピンタをくらわせた。
他のスキー客は黙って状況を見守っている。
添乗員が、就寝の時間ですからお静かに願いますと、的の外れた宥め方をした。
決まり悪くなった茶髪の男は、鼻で笑って席に着いた。
「お腹に子供がいるんだから、心配させないで」
スキンヘッドは一転、神妙な顔つきになった。
最後列に陣取る社長一行は黙って動向を見守っていた。後方にかぶりを振った時、社長と私の目が合った。
23時25分。バスは5分早く、二条城の駐車場に到着した。
――15分間のトイレ休憩です。
光の加減なのか、室内ミラーに映る運転手の目が、赤く光ったように見えた。
(つづく)
3
最初の休憩を終えたスキーバスは、23時40分きっかりに京都を出発した。
次の停車駅はJR草津駅西口のバスロータリー。到着予定時刻は午前0時30分。
スキー客は静かだった。
社長一行は目立たぬよう、ちょびちょびと酒を飲んでいる。
23時55分を過ぎたあたりから、あちらこちらで鼾が聞こえ始めた。社長は腕を組んだまま目を閉じている。誰が持参したのか、温かそうなブランケットが社長の膝に掛けられていた。同行の社員は口を開けたまま、夢心地になった。
高速道の追い越し車線をひたすら走り続けるスキーバス。窓外で時折覗く人家の灯りが、過去の自分へとタイムスリップさせた。
◆
商社勤務の二十代。朝から晩まで仕事に明け暮れた。生き馬の目を抜く商社の世界で、一分足りとも息が抜けなかった。家族を顧ない毎日。疲労困憊で深夜に帰宅、妻との会話が無くなった。たまの休日も優しい言葉すら掛けてやれないほど、精神的に参っていた。
三十路になったとたん圧し掛かる仕事の重責。仕事と家庭のバランスが完全に崩壊した。海外出張が多くなり、この悪循環は断ち切れなかった。妻は実家に帰り、その数ヶ月後離婚。会社でも一匹狼のレッテルを貼られ、新規開拓と銘打って僻地に出張させられることが多くなった。
唯一己を支えたのは《孤高の精神》だった。孤独を紛らわす自らへの正当化。これでもなければ出張の嵐には耐えられた。
そんな或る日、南米で私を変えた出来事があった。
場所は赤道直下の南米エクアドルの首都キトー。日曜の昼下がりの瀟洒なレストラン。
私の左隣のテーブルに金持ち風の家族が4人連れで座っていた。左斜めに目を向けると、大柄な男が2人、家族を見守るように立っていた。金持ちを狙った誘拐事件が後を絶たないため、ボディーガードを雇うのもそんなに珍しいことではなかった。
暫くして猪首で小柄、太った父親が子供2人に「アプーラ・テ!」スペイン語で、早くトイレを行っておいで、と促した。
母親が5、6才の息子と娘を立たせ、トイレに連れて行く。テーブルに父親がひとり残った。
母子3人の背中が視界から消えた瞬間、ボディーガードのひとりが突然床に倒れた。
慌ててもうひとりのボディーガードが拳銃を抜く。
「プシュッ!」
もうひとりのボディーガードにも命中。ドスンッと倒れた。
マシンガンを持ったフル装備の男が5名、厨房、入口のドア付近、テラスから姿を現し、同時にレストランの客を装った男性が2名、1名はボディーガードに、もうひとりは父親にそれぞれ照準を合わせていた。
手錠を掛けるまでの時間わずか30秒。
「ジャー・バスタ!」もういいだろう。急襲したリーダー格の男が呟いた。
父親はレストランに横付けされたRV車に連れて行かれた。倒れたボディーガード2名は、隊員たちに担ぎ出された。
私はすぐさまレストランのオーナーに訊いた。急襲部隊は誰なのか、と。
口髭を蓄えた50前のオーナーは、連行された男は南米テロ組織の大物で、急襲したのは対テロ特殊部隊のGEOだと教えてくれた。
私は今までに経験したことの無い震えを感じ、身体の隅々まで血液が流れるのを感じた。
(つづく)
最初の休憩を終えたスキーバスは、23時40分きっかりに京都を出発した。
次の停車駅はJR草津駅西口のバスロータリー。到着予定時刻は午前0時30分。
スキー客は静かだった。
社長一行は目立たぬよう、ちょびちょびと酒を飲んでいる。
23時55分を過ぎたあたりから、あちらこちらで鼾が聞こえ始めた。社長は腕を組んだまま目を閉じている。誰が持参したのか、温かそうなブランケットが社長の膝に掛けられていた。同行の社員は口を開けたまま、夢心地になった。
高速道の追い越し車線をひたすら走り続けるスキーバス。窓外で時折覗く人家の灯りが、過去の自分へとタイムスリップさせた。
◆
商社勤務の二十代。朝から晩まで仕事に明け暮れた。生き馬の目を抜く商社の世界で、一分足りとも息が抜けなかった。家族を顧ない毎日。疲労困憊で深夜に帰宅、妻との会話が無くなった。たまの休日も優しい言葉すら掛けてやれないほど、精神的に参っていた。
三十路になったとたん圧し掛かる仕事の重責。仕事と家庭のバランスが完全に崩壊した。海外出張が多くなり、この悪循環は断ち切れなかった。妻は実家に帰り、その数ヶ月後離婚。会社でも一匹狼のレッテルを貼られ、新規開拓と銘打って僻地に出張させられることが多くなった。
唯一己を支えたのは《孤高の精神》だった。孤独を紛らわす自らへの正当化。これでもなければ出張の嵐には耐えられた。
そんな或る日、南米で私を変えた出来事があった。
場所は赤道直下の南米エクアドルの首都キトー。日曜の昼下がりの瀟洒なレストラン。
私の左隣のテーブルに金持ち風の家族が4人連れで座っていた。左斜めに目を向けると、大柄な男が2人、家族を見守るように立っていた。金持ちを狙った誘拐事件が後を絶たないため、ボディーガードを雇うのもそんなに珍しいことではなかった。
暫くして猪首で小柄、太った父親が子供2人に「アプーラ・テ!」スペイン語で、早くトイレを行っておいで、と促した。
母親が5、6才の息子と娘を立たせ、トイレに連れて行く。テーブルに父親がひとり残った。
母子3人の背中が視界から消えた瞬間、ボディーガードのひとりが突然床に倒れた。
慌ててもうひとりのボディーガードが拳銃を抜く。
「プシュッ!」
もうひとりのボディーガードにも命中。ドスンッと倒れた。
マシンガンを持ったフル装備の男が5名、厨房、入口のドア付近、テラスから姿を現し、同時にレストランの客を装った男性が2名、1名はボディーガードに、もうひとりは父親にそれぞれ照準を合わせていた。
手錠を掛けるまでの時間わずか30秒。
「ジャー・バスタ!」もういいだろう。急襲したリーダー格の男が呟いた。
父親はレストランに横付けされたRV車に連れて行かれた。倒れたボディーガード2名は、隊員たちに担ぎ出された。
私はすぐさまレストランのオーナーに訊いた。急襲部隊は誰なのか、と。
口髭を蓄えた50前のオーナーは、連行された男は南米テロ組織の大物で、急襲したのは対テロ特殊部隊のGEOだと教えてくれた。
私は今までに経験したことの無い震えを感じ、身体の隅々まで血液が流れるのを感じた。
(つづく)
2
茶髪の男が足早にバスを降りた。後部座席のスキンヘッドに向かって、鼻を鳴らしたように見えた。
挑発的とまではいかないまでも、スキンヘッドが見たらまた小競り合いになると私は思った。
私はスキンヘッドのカップルに続いて降りた。
運転席と添乗員が座る補助席の間のダッシュボードに、緑地に白文字のネームプレートがくっきりと浮かんでいた。
――運転手 倉地二三男。
車外に出たスキー客はほぼ全員、一列になってサービスエリアのトイレに向かった。
私の三メートル前方、スキンヘッドのカップルが歩いている。
「あの野郎、ぶちのめしてやる」
厳つい歩き方をしながらスキンヘッドが虚勢を張った。
「やめてよ、こんなところで」
「こんなところも、そんなところもあるか」
「ここで喧嘩したら、私、帰るからね」
「好きにしろ」
私はカップルに目を遣りながら、後方から近づいてくる社長一行に耳を傾けた。
「社長。こいつ、COOに昇格させて下さい」
「最高執行責任者のポストは、まだ早いだろう」
「チーフ・オペレーティング・オフィーサーじゃなくて、チーフ・オシッコ・オフィーサー、最高オシッコ責任者ですよ。こいつトイレが近いんです」
社長の頬に苦笑がよぎった。
一行はそのままトイレに入った。
私自身商社を辞めて早六年になるが、今でも昇進の言葉に敏感に反応した。組織の一員で働いていた頃が懐かしい。
運転手はバスから降りると携帯を取り出し、道路わきのあずまやで誰かと話しをし始めた。
再度のトラブルを恐れたキツネ目の女はサービスエリアの男子トイレの前まで来て、スキンヘッドに念を押した。
「いい? 揉め事はイヤよ!」
「カリカリすんな」
「カリカリさせてんのは、アンタでしょ!」
冷たい風が二人の間を吹きぬけた。
先に用を足した茶髪の男がトイレから出てきた。
面を切る茶髪。スキンヘッドが鬼のような顔で応酬する。
「何だ、そのツラは。オレにケンカ売るのか?」
「黙っとれ、ワレ!」
茶髪がドスの効いた声で応酬した。
スキンヘッドが素早く茶髪の胸倉を掴んだ。
全く強張らない茶髪の顔に、スキンヘッドは一層苛立ちを覚えた。
我慢の限界である。
スキンヘッドの右手が力強い拳を作った。
その瞬間――。
「警察を呼んで!」
キツネ目の女が売店に向かって走り出した。
「ほら、どうする、坊ちゃん。――どーなんだよ!」
スキンヘッドの頬がピクピクと痙攣している。
茶髪もスキンヘッドも背丈は170センチ強とほぼ同じ。厳つさではスキンヘッドが勝っていたが、茶髪は喧嘩慣れしているのか、いやに落ち着いている。
「この野郎!」
「止めとけ、オレには勝てねぇよ」
売店前でキツネ目の女が立ち止まった。
「もう、勝手にしたら!」
胸倉を掴んだスキンヘッドの左手から、急に力が抜けて行った。
「彼女の方が、よっぽど大人だぜ」
「ちぇっ、弱虫野郎の言うセリフだ」
気まずさを取り繕うように、スキンヘッドが自分の腕を払った。
「勝てる喧嘩は、することないか」
スキンヘッドは捨て台詞を言ってトイレに入った。
トイレから出ると、雪のつぶてが正面から襲ってきた。
体感温度が一気に下がり、先程の重役連中が足早にバスに戻る。
社長本人はサービスエリア内の休憩室に向かい、私も後を追った。
社長は自らストーブの上の薬缶を取り上げ、備え付けのプラスチック製の湯飲み茶碗に熱いお茶を注いだ。私はテーブルを挟んで斜交いに座り言葉を待った。
二度お茶を啜った社長が、掛け時計を見ながら呟いた。
「どうだった?」
私は上目遣いで答えた。
「怪しいメモがありました」
「それで?」
「バスごとやっちまうようだ」
背中の中心を冷気が吹き上がったように、社長の身体がビクッとした。
「じゃぁ、奴を捕まえろ」
「まだ早い。ゲロを吐かせないと」
バスの出発まで五分と迫っている。
「みんな死んじまうぞ。――警察に電話する」
「状況証拠も無い状態で、笑い者になるだけだ。あと二時間は大丈夫。奴の狙いは――」
核心に迫ったところで、重役の声が二人の会話を遮った。
「社長。乗り遅れますよ!」
怪しんでいる様子はない。
「おう。もうそんな時間か」
「こんな安もんのお茶、社長が飲むもんじゃないですよ」
男は湯飲み茶碗を片付け、社長の背中を押した。
私は声に出来ないメッセージを、社長の背中にぶつけた。
――油断と慢心が事故の元になる、と。
(つづく)
茶髪の男が足早にバスを降りた。後部座席のスキンヘッドに向かって、鼻を鳴らしたように見えた。
挑発的とまではいかないまでも、スキンヘッドが見たらまた小競り合いになると私は思った。
私はスキンヘッドのカップルに続いて降りた。
運転席と添乗員が座る補助席の間のダッシュボードに、緑地に白文字のネームプレートがくっきりと浮かんでいた。
――運転手 倉地二三男。
車外に出たスキー客はほぼ全員、一列になってサービスエリアのトイレに向かった。
私の三メートル前方、スキンヘッドのカップルが歩いている。
「あの野郎、ぶちのめしてやる」
厳つい歩き方をしながらスキンヘッドが虚勢を張った。
「やめてよ、こんなところで」
「こんなところも、そんなところもあるか」
「ここで喧嘩したら、私、帰るからね」
「好きにしろ」
私はカップルに目を遣りながら、後方から近づいてくる社長一行に耳を傾けた。
「社長。こいつ、COOに昇格させて下さい」
「最高執行責任者のポストは、まだ早いだろう」
「チーフ・オペレーティング・オフィーサーじゃなくて、チーフ・オシッコ・オフィーサー、最高オシッコ責任者ですよ。こいつトイレが近いんです」
社長の頬に苦笑がよぎった。
一行はそのままトイレに入った。
私自身商社を辞めて早六年になるが、今でも昇進の言葉に敏感に反応した。組織の一員で働いていた頃が懐かしい。
運転手はバスから降りると携帯を取り出し、道路わきのあずまやで誰かと話しをし始めた。
再度のトラブルを恐れたキツネ目の女はサービスエリアの男子トイレの前まで来て、スキンヘッドに念を押した。
「いい? 揉め事はイヤよ!」
「カリカリすんな」
「カリカリさせてんのは、アンタでしょ!」
冷たい風が二人の間を吹きぬけた。
先に用を足した茶髪の男がトイレから出てきた。
面を切る茶髪。スキンヘッドが鬼のような顔で応酬する。
「何だ、そのツラは。オレにケンカ売るのか?」
「黙っとれ、ワレ!」
茶髪がドスの効いた声で応酬した。
スキンヘッドが素早く茶髪の胸倉を掴んだ。
全く強張らない茶髪の顔に、スキンヘッドは一層苛立ちを覚えた。
我慢の限界である。
スキンヘッドの右手が力強い拳を作った。
その瞬間――。
「警察を呼んで!」
キツネ目の女が売店に向かって走り出した。
「ほら、どうする、坊ちゃん。――どーなんだよ!」
スキンヘッドの頬がピクピクと痙攣している。
茶髪もスキンヘッドも背丈は170センチ強とほぼ同じ。厳つさではスキンヘッドが勝っていたが、茶髪は喧嘩慣れしているのか、いやに落ち着いている。
「この野郎!」
「止めとけ、オレには勝てねぇよ」
売店前でキツネ目の女が立ち止まった。
「もう、勝手にしたら!」
胸倉を掴んだスキンヘッドの左手から、急に力が抜けて行った。
「彼女の方が、よっぽど大人だぜ」
「ちぇっ、弱虫野郎の言うセリフだ」
気まずさを取り繕うように、スキンヘッドが自分の腕を払った。
「勝てる喧嘩は、することないか」
スキンヘッドは捨て台詞を言ってトイレに入った。
トイレから出ると、雪のつぶてが正面から襲ってきた。
体感温度が一気に下がり、先程の重役連中が足早にバスに戻る。
社長本人はサービスエリア内の休憩室に向かい、私も後を追った。
社長は自らストーブの上の薬缶を取り上げ、備え付けのプラスチック製の湯飲み茶碗に熱いお茶を注いだ。私はテーブルを挟んで斜交いに座り言葉を待った。
二度お茶を啜った社長が、掛け時計を見ながら呟いた。
「どうだった?」
私は上目遣いで答えた。
「怪しいメモがありました」
「それで?」
「バスごとやっちまうようだ」
背中の中心を冷気が吹き上がったように、社長の身体がビクッとした。
「じゃぁ、奴を捕まえろ」
「まだ早い。ゲロを吐かせないと」
バスの出発まで五分と迫っている。
「みんな死んじまうぞ。――警察に電話する」
「状況証拠も無い状態で、笑い者になるだけだ。あと二時間は大丈夫。奴の狙いは――」
核心に迫ったところで、重役の声が二人の会話を遮った。
「社長。乗り遅れますよ!」
怪しんでいる様子はない。
「おう。もうそんな時間か」
「こんな安もんのお茶、社長が飲むもんじゃないですよ」
男は湯飲み茶碗を片付け、社長の背中を押した。
私は声に出来ないメッセージを、社長の背中にぶつけた。
――油断と慢心が事故の元になる、と。
(つづく)



